そっちどっち

私達は生きている限り
必ず選ばなくちゃならないことってのがあるんだよね
選ぶってのはいろいろとリスクをともなうから
本当はあまりやりたくないことだし
なにかを選ぶたびに、きっと背負うべき責任は増えていって
だからこそ、曖昧なままにしているほうが楽なんだよなあ

悲しむ人がいないことが正義だというのなら
だれも何も選ばない世界のほうがいいのかもしれない。
なにかを選択してしまえば、必ず反対側の人は悲しいはずだから。
でもそうやって曖昧にしていても、
心だけは勝手に、決めたこと以外も選んでしまうのが
生きている人間なんじゃあないのかなあ。
けっきょくそれを、曖昧にすることが正義だとするのなら
心に従って生きることは悪なのだろうか。

まあ、程度問題なんだろうけど
ならばあまり、曖昧でもこれは正しいとか決めないべきなのかもな。
ただ、なにかを前に進めていくためには、
やっぱり選ばなきゃいけないし、
自分はこれを選んだと、ちゃんと自覚しなくちゃいけないのだと思う。

自分が前に進むために選ぶことに
正しいも間違いもないのだろう。

いきてきた道

人の”人格”って
その人の心そのものであり
その人が生きてきた道だけが
ただ、形作るそのもので
それを否定するということは
人生を否定するのと変わりない
そういうものだと私は思う。

誰しも人格を否定されるようなことを言われると
嫌な気分になるものだろうけど
それは自分を否定されたというより
自分の生きてきた道
選ばなければならなかったときに選んできた道
これまでに自分が軸にして信じてきたもの
それらを否定されるのと同じだからじゃないのかな。

否定がなければ前には進めないし
自分は正しいと思っているだけではつまずいてしまう
別の正義を生きる人の意見はきっと糧になるけれど
それでも人格は生きてきた道であり
もっとわかりやすく具体的に言うならば
今までの人生でのすべての行動の積み重ねなんだよね。
だからこそ、今から変えようと思ってすぐ
変えることは不可能だし
それでも変えていかなくちゃいけないのは
自分にとって正しい自分である”人格”ではなく
そのさきにある”行動”なんだろう。
そしてその行動の積み重ねが
この先のさらなる人格に繋がっていくんだよなあ。

みんなにとっての正しさなんて
この世には存在しないからこそ
自分は正しいと自信を持っていい。
もっと、自分に誇りと自信を持って生きていい。
自分の正しさに従った結果、正しくない行動をしてしまったら
その行動を正していけばいいだけなんだ。
シンプルで複雑なのが人の心だ。

生きてきた道は変えられないけど
生きる道は選んでいける。

迷惑をかけること

人に迷惑をかけてはいけません。
と、教えられてこの国の子供は育てられるけれど、
人に迷惑をかける。
って、いったいどういうことなのだろうか。

人は、生きている限り
必ず誰かに迷惑をかけてしまうし
人間社会ってのは
迷惑のかけあいで成り立っているんじゃないのかなあ。
迷惑をまったくかけない人を
人は愛せるものなのだろうか。
誰にも迷惑をかけずに
なにかを成し得ることはできるのだろうか。

迷惑をかけるからこそ
人は、人に感謝ができるのではないだろうか。

この社会にはいろんなお店や会社があって
毎日人と人同士で
いろんなやりとりが行われているけれど、
そうやって何をしているかといえば
迷惑をかけあっているのではないだろうか。
できないことをやってもらったり
欲しいものを変わりに手に入れてもらったり。
そうして、それに見合ったお金を渡すわけだけれども
その行動も、自分のお金を他人にわたすことも
考えてみれば迷惑なことであるような。
助け合う。
ともいうのだろうけれども。
そうやって、人と人が迷惑をかけあうこと自体が
人間社会を作っているんじゃないのかなあ。

一方的に迷惑をかけてはいけません。
ということ、なのかもしれないけれど、
ただ迷惑をかけ続ける人間なんて存在するんだろうか。
誰かに迷惑をかける人も、他の誰かを支えていたりする。
一方的に迷惑かけられたら
そりゃあその人は怒ったらいいんだけど、
でも、自分だって、誰かに
一方的に迷惑かけたりしてることもあるわけで。
時には、自分の大切な人を守るために
反対側にいる誰かに、迷惑をかけちゃうこともあるだろう。

なんでも言われたとおりに
はいはいと言っておけば、
誰にも迷惑かからないのかもしれないけれど、
それじゃあ、機械となんら変わらないのでは。
人の心があるからこそ、めんどうくさくっても
愛される人間、なんじゃないのかなあ。

大切なのって、人に迷惑をかけずに生きることよりも
人のためになにかをしてあげること
なんじゃあないのかな。
その上で、何をするのもしっかりと
自分で責任を持つことだと思っている。
よかれと思ってやったことで、誰かを傷つけた時なんかも
すべての行動にはちゃんと責任もたないと。

私はだれにも迷惑をかけずに生きてます。なーんて
なんだかとても無責任な生き方なんだなあ。
って、思っちゃうよ。

簡単だよ。生きるのは。

自分の力が本当は及ぶはずの範囲内で
どうしようもなく
何をするのも難しく感じる。という時があるけれど
そういう時ってたいていは、ただ、
いろいろなことを考えるための視点みたいなものが、
難しいほうへ
難しいほうへ
チューニングされているだけだったりするんだよね。

物事って難しく考えればいくらでも難しく考えられちゃうし、
それをするのが研究者さんなんかの仕事なのかもしれない。
でも、逆に簡単にとらえようと思えば、いくらでもハードルって下げられるものでもあって、
どんなに難しそうなことでも、細かく分解して自分がわかるように単純化していけば、
時間さえかければできないことなんて
そうそうないんだよなっていうのが、今までの経験上なんとなくわかっていることだったりする。

眼の前の大きな絶壁を、ああこれは、なかなか超えることはできないなと
絶望して登るのを諦めちゃえば絶対に登りきれないだろうけど、
あれ?登ってみたら、案外簡単な道があるもんだって気づけたら
その登る過程もハイキングみたいで楽しいだろうし
てっぺんに行くまでに見える景色やいろいろな出会いもあって
なにより自信につながるのかなと思う。
なんなんら、登る前に崩しちゃってもいいと思うんだ、絶壁。

きっと最初から、大変そうだなっていろいろ背負わなくってもよくって
もっと簡単な道を、身軽な状態で進んでいけたら
それが理想なのかもなあ。
もちろん無計画とか、行き当たりばったりとか、そんなんじゃあ
けっきょく途中で進めなくなっちゃうんだろうけど
じっくり目の前のその
難しいことと向き合いながら、
その上で、ちゃんとバランスをとって足を踏み外さない方法を
身につけていけばいいんじゃないだろうか。

挑み続けることに大切なのは
準備に奔走することよりも
途中で逃げ出さないことよりも
うまく、バランスを取り続けることなのかもしれない。

人の心というものは、ときにどうしようもできないものだなあ。

一度どん底に落ちてたのだけど、
ちょっとしたきっかけがあって
ここ最近また良い方向に歩きだせていた。
はずだったのに、ほんと、よくないことって
そういうタイミングでまたやってきたりする。

まるで、まだ幸せになるにははやいぞって、言われているような。
なんだか人生、ずっとそんな感じで何かよくわからない抗えない、
運命のようなものに阻まれ続けてきたなあと感じる。

起きたことに対して、どう感じて、何を思うか、
ようは、それをどういう風に解釈するかっていうのは、
人によって違ってきて
運命というのも、とらえかたしだいで変えていくべきもの
なのかもしれないけれど
でも、やっぱり、心というのは、どうしようもないときがある。

わからないことがたくさんあって、
処理しきれない感情が山のように溢れているんだ。

もし、何もかもわかるなら、それは
何もわからないのと同じことなのではないか。
もし、感情が全て思いのままなら、それは
感情がないのと同じことなのではないか。

物事を理解して、そこから何かを感じ取る能力がある限り、きっと
わからないことがなくなることは一生なくって
感情を操ることも、一生できないのだろうなと、思う。
わからなくて、振り回されるのが、心そのものなのかもなあ。

ラミナルテン

予定していたより遅くなってしまいましたが
そんなこんなである意味LAMINAらしいマイペースなスタートを切りました。
はじめまして、ラミナルテンです。
まあ、今後もそういう感じで、ゆるくながく続けていけたらいいなと思います。

なんだか、やるぞ!って言ってみたり、わざわざ告知してみたり、やけに張り切っていましたが、
けっきょくどういう感じのコンテンツになるのですかと問われると、それは私にもわからないし、
今までのブログと変わらないかもしれなければ、
何か新しいものが生まれてもいいなって思っています。

このブログのタイトルなんだけど、ラミナにくっついてるルテンは日本語の”流転”より。
響きがいい感じっていうのも大きいんだけど、意味は改めて調べてみると
「物事がとどまることなく移り変わってゆくこと」とあって、ああ好きだし、
考えが移り変わり気味なもちづきのブログにぴったりじゃないか、と思ったんですよね。
そんなこんなでタイトルどおり、目的とか形式とかも、あんまりこれ!と決めることなく、
そのときの自分に合わせて移り変わっていってくれればそれで、
おもしろいんじゃないかなって思ってます。

ひとつの信念を信じてまっすぐ歩んできた大人と最近よく関わるんですよ。
それは、すごいことだと思うんだけど、私にそういう生き方はできなくて。
でも私の中にもある種の信念みたいなものは、
むしろ人より根強く存在しているような気がするんだけど、
それこそが、留まることなく移り変わり続けること、なのかもしれない。
ぐねぐねと形を変えてもここが理想と決めつけず、
ずっと先まで歩いていけたらいいなって思うんだよなあ。
よく、子供っぽいって言われるんですけど、大人らしさがゴールだとしたら、
私はもうちょっと子供のままでいい。
だって、まだまだ成長したいことってたくさんあるし、ゴールに向かっていっぱい寄り道しながら、
ちっぽけな人間が少しでも大きくなれるような旅をずっと続けたい。
生きる意味は人それぞれだしそれもまた移り変わるものではあるけれど、今のところ、
私の生きる意味はそこにあるのだ。

なんだか壮大になってしまったけど、ラミナルテンを、今後ともどうぞよろしくおねがいします!