旅の途中

これはとても長い旅なのだから

時々、寄り道をしてしまうこともあるものさ。
まっすぐに整備された道を進むだけで
たどり着ける場所がすべてなら
誰も旅人になんてならないさ。

時には険しい道もあるだろうし、
苦しいときも、悲しい別れも、
たくさん、たくさんあるのだろう。

ずっとまっすぐに歩き続ければよいというものではない。
疲れたら休むからこそ、長い長い旅ができるのだ。

たくさんの出会いがあり、
たくさんの物を手に入れるだろう。
だけど、全てを持っていくことはできない。
長い旅の中では、本当に大切なものを選ばなくちゃいけない。

誰もが目的地にたどり着けるわけではない
途中で歩くことができなくなる者も
命を落としてしまう者もいる
だけれども、恐れていては旅は終わってしまう。

少しずつ、少しずつ、強くなっているんだろう。
時々後ろを振り返りながら、ちゃんと前を見れるんだから。

ネット世界

インターネット世界は、
物理的な空間ではないから、
本来、無限に広がっていて、
のびのびと、ひろびろとした、
高原のような場所だったように思う。

だけど、人が集まると、
そこには集落ができて、いつしか街ができる。
SNSとかって、そういう、都会のような場所のような
気がするんだよね。

広い世界の中にあるひとつの街
人は、情報や交流、いろんな楽しみのために、
そこに集まって生活をはじめるんだ。

そうすると、街じゃないところは
だんだんと、人がいなくなってゆく。
過疎化していくのだ。

でも、人間は窮屈がきっと苦手だ
人口密度が高すぎる都会では、
いろんなストレスがせめぎ合っていて、
広大でのびのびとした、無限に広がる
自由の世界だったはずのインターネットから、
どんどん、現実の街のような窮屈で、
慌ただしく、混沌とした世界になって、
行き場を失ったイライラを、
自分以外のだれかに、もしくは自分自身に、
ぶつけつづけているような、
そんな感じがする。

人がいない場所にも、
案外、きれいなものが転がっているよ
それの、第一発見者になってみるワクワクは
知っているほうが、いい気がする。
今のような時代だからこそ。

かいぬし

小さいのころから犬と一緒に暮らしている。
小学生のころ、金魚やザリガニ、ハムスターとかから
はじまって、インコに犬に猫に…
自分がなにかの飼い主であることは、もはや
当たり前の状態であり、何も飼ってないってのが
考えられないぐらいなんだけど、
それでもいまでも、もしも、ペットを何も飼っていなかったら
夜、家に帰らなくてもいいし、
何週間とか、何ヶ月とかの、おっきい旅行もできるし、
もっと拘束時間の長い仕事もできるし、
あいた時間もお金も、ぜーんぶ自分のために使えるなあ…
なんて、考えたりもする。

だけど、そんなはちゃめちゃなことを、やりたいなあって
考えちゃう性格だからこそ、
飼い主であることによって
人間らしい生活を保てているんだよなあ。

そもそも、もし守りたい生き物がいなければ、
自分に対する執着がなすぎて、
いま、生きているかもわからない。

だからこそ、私のペットとしての務めを
しっかりのんびり、一生果たしてくれる動物たちには
感謝の気持ちでいっぱいなのだ。
これからもたぶん、あれがやりたい、これがやりたいって、
叶わなくてもいい願望を吐きながら、
ずっと、なにかの飼い主として生き続けるのだろうな。
それは、きっと、間違いなく、ひとつのしあわせの形なんだ。

親愛なる小さなふわふわたちへ
明日からも、飼い主が飼い主でいられるように
どうぞよろしくおねがいします。

バランス

たのしいからやるとか
たのしくないからやらないとか
あんまりどちらも続くものでもない

たのしいこともやっているうちに
たのしくなくなってくるし

たのしくなかったこともやっているうちに
だんだんたのしくなったりするものだ

けっきょく、
たのしかろうが、たのしくなかろうが
やらずにはいられないことを
やるのが、生きるってことだ

それが、たのしいこともあるし
ぜんぜんたのしくないこともある。

人生は、そんな感じで
その人なりに、バランスがとれている。

とっていかなくちゃいけない。

吠える犬

自分は野生の狼だと
野山を駆け回り狩りをする一匹狼だと
息巻いて吠えるばかりの
ちっぽけで気性の荒い、だけども飼いならされた犬だ

きっとどんなに吠えても咬み付いても
狼にはなれなくて
人の手を離れて駆け出せば
すぐに生きていく術を失ってしまう

それでも飼いならされた人生が嫌だ
そういう犬は、どうすればいいんだろうか。

いい加減、自分のちっぽけさを認めていかないと
次のステージに進めずに、理想と現実のギャップに
なにもかもがおもしろくなくなって
やーめたって、言いたくなるところまできてしまっている気がする。
何をやっても伸びていた、若い頃とはもう違うのだと
いよいよなりたくなかった、大人になってしまったのだなあと
痛感する日々。
スタートダッシュで全力だしすぎて
ガス欠でなんとか動いてるような状態なのに
風を切り世間を追い越し目標へとまっすぐ向かう爽快感を
忘れられなくて、どうしてこうなったんだってずっと、思い続けている。

昔から、結果を出すことを求められ続けてきた
あんまり褒められなくって、もっと上を、もっと上をって
そうやって育てられてきたから、
根本的な考え方の癖として、それが抜けないというのは
あるんだと思う。
でもきっと、それは親なりの子供のしつけだったんだろう。
おとなになった今、どんなに思い描いたものと違ったとしても
今は成長するための考えから抜け出して
大人としてしっかりと立って、歩く方法を
自分で考えて、みつけていけなければならないんだと思う。
もう、この呪縛から開放されていいのかもしれない。
できあがってしまったちっぽけな自分を
ありのまま受け入れて、愛してあげていいのかもしれない。
よく頑張ったなって。

狼になれなくても、小さくて弱くても
鎖からはずれて、彷徨って、人に餌付けされながら
野生のフリをするただの飼いならされた犬でも、
その生き方もまた、たどり着いてしまった私にとっては
正しいひとつの生き方なのかもしれない。

過程

目標に向かう”過程”を楽しめる人というのは
気付いたら普通大変そうにみえる壁なんかを
ぽんと飛び越えていたりする気がする。

たどり着くまでは苦痛なのか
たどり着くまでも楽しいのか
そりゃあ、全部が楽しいわけではなくって
どうしても、苦しいこともあるけれど
それも、おもしろいなって思えたら
進む道がどれだけワクワクするだろう。

心を踊らせるものってきっと
夢だけではなくって
絶望的な状況でも
絶対に無理な壁だとしても
それをどうやって超えていくかということを
頭やからだを使って考えることじたいが
失敗から新たな方法を思いついて少しずつ進んでいくことが
そうなのではないか。

楽しんでいるうちに、気付いたら
ずいぶん高いところに登ってきてたなって思える
そんなのが理想だなあと思う。
傷つかずに進むんじゃあなくって
小さな擦り傷をあとでみて、勲章だよと笑えたら
最高だよなあ。

おしえ

起こったことや感じたことに、どういう反応をするか
いわゆる、人の感性というものは
その人が生きてきた人生すべてから
導き出されることであるはずなんだけど、
だからこそ、みんながみんな、同じなわけがないのだ。

私は昔から、自分がされたら嫌なことは人にしてはいけません
という教えが嫌いだった。
人はそれぞれ感じ方が違うからだ。
自分がされたら嫌なことを人にしてはいけないっていうのは
裏を返せば、自分がされて嫌なことじゃなければ
人にしてもいいってことになってしまうって。
人間関係って、そんな簡単なものじゃあないだろって
小学生のころから思ってて、すごく嫌だったことを覚えている。
それはたぶん、たまたま自分の感性が、ずいぶん人と違っていたから
そういう考えに至ってしまったのだろうけど。
子供のころも、今も、大勢のひとたちから、自分は気にならないことで
傷付けられてきたし
同じように、私も悪気なく何度も人を傷付けてしまったことがある。
まるで、教えを守れば守るほど、自分が間違っていると感じさせられるような。
そして、傷付けられたときも、傷付けたときも、なぜか
感性の違う自分が間違っていると、正しくないと、
そういう風に思わされてきたような。

だから、この教えは嫌いになってしまったんだけど
人はけっきょく、自分の感性の中でしか生きることができなくって
でも、それで、同じような立場の、同じような傷を負って生きてきた人たちを
助けたり、助けられたりっていうのが
特におとなになってから、何度もあったんだ。
そう、この教えって、大人が子供を、空気が作り上げた正しいに
従わせるためのものだと思っていたけれど、
本当はもっともっと優しい教えなのかもしれない。
この世界にはいろんな人生を送ってきた人がいて
いろんな傷を負った人がいて
いろんな救いや仲間を求めている人たちがいて
そういうすべての人の、すべての感性を、同じ気持ちの人どうしで
支え合って、助け合うための教えなんじゃあないのかなって
思ったんですよね。

誰だって、自分と同じような誰かの
してほしくないことと、してほしいことが
自然とわかっちゃうんだ。
それぞれそうやって、役割を持って生きてるんだよ。
だからどんなにみんなと違っても
君は誰かにとって必要な理解者であれば
それで君は正しいんだ。

っていう、こと…だったらいいなあって思う。
少なくとも、私はそういう風に人に伝えていこうと思う。
誰だって誰かのために存在しているっていう
優しい教えとして、これからも続いてほしいと思う。

そしてできれば、相手に悪気はなくっても
それは、嫌なことだからって、みんなが伝えられたらいいよね。
それを、そうなんだって、わかってあげられる優しい心が
みんなの中にあったらいいなって思うよ。

柔らかにぶつかる

大切にしてるものほど
ちゃんと、自分のものにしていかないと
大切に大切にしすぎて
扱い方がわからないまま
壊してしまったりする

表面だけしか見えてないものを
もっと深く知るには
一回突き刺さらないとどうしようもなくて
それを大切なりにどうやっていくかが
長く大切にしていく鍵なのかもしれない

いつからだろう
負けてもいいやと思いはじめたのは
違うと思うことも受け入れはじめたのは

昔の自分のことってきっと美化している部分があるし、
当時は当時で間違いなくいろいろとうまくいっていなかったんだけど
それでも、なんだかどうにも、人が変わったなあと自分で思うというか

たぶん、根本の部分は変わってなくって
猪突猛進で、負けず嫌いで、自己中で、人を信じない
そういう性格のままではあるんだけれども、
それでもいつのまにか、そういう自分を抑え込んで
うまく人の中に溶け込むようにしてきたんだと思う。
それが、大人になるということなのかもしれないけれど、
子供のころから、あんまり自分みたいな人間いなかったし
なら今もずっと感じている違和感や孤独感や苦しさは
やっぱり自分の生き方をしていないからなのかなあと、思ったり。

そもそも、これが正しいって思ってないんだよね
たぶん、それなりに自分の行動を肯定できなければ
つづけていく理由にならないんだけど
私のこれは、単純な諦めだし、
小学生の頃にはあった高すぎるプライドで、
成長するごとにどれだけ傷ついてきただろうか。
はたちぐらいに大きな挫折をするまでは、
それでもこのプライドをバネに頑張ってたんだと思う。
あのとき、うまくいかない原因を
プライドのせいだ。と思っちゃったから
今のふらふらな私がいて。

でも、当時もふらふらはしてたんだよ。
ただそのふらふらは、いろんな試行錯誤と工夫と勇気の中にあったもので
いまのふらふらは、ただひたすら逃げてうまくやるためにあるもので、
逃げなきゃ本当に潰れてたかもしれないし
この道にこなきゃわからないこともたくさんあったんだろうけど
けっきょく、ずっとこのまま自分に嘘ついて
ああ、おかしいなあって思いながら、文句たらたらたれながら
何もしないで生きていつか死んでいくのは、嫌だなって思ってしまった…。

乗り越えなければ、人はちっとも前に進まないんだ。けっきょく。
ただ、世界は広がっていくから、悪いことでもないんだけどね。

単に私は、たぶん前に進み続けないと生きていけない
そういう人間なんだと思う。
ポジティブな意味でもないんだけど、
ポジティブにしていかないとしょうがないよな。これは。

いつ死ぬかわからない怠惰なマグロ。

やらずにはいられないことがあるって
すごく幸せなことだよね

欲しいと思って手に入るものではないから
偶然手に入ったものだとしても
なにか傷を負った先にできたものであっても
持っていて、持ち続けていることで
他のだれにも持ちえないものが
大きく美しく育っていく
貝の中の真珠みたいなもので
自分の人生の中でほんとうにたまたま
運良く手に入れることができた
とても価値のある宝物なのだと思う。

人と違うそれを持ち続ける感覚は
つらく苦しくもあるけれど
それを守り続けることで
できあがった真珠を見てはじめて
人はそれを美しいと認めるのだ。

自分の中にあるその偶然かもしれない核を
ずっと大事にしながら生きていきたいな