起こったことや感じたことに、どういう反応をするか
いわゆる、人の感性というものは
その人が生きてきた人生すべてから
導き出されることであるはずなんだけど、
だからこそ、みんながみんな、同じなわけがないのだ。
私は昔から、自分がされたら嫌なことは人にしてはいけません
という教えが嫌いだった。
人はそれぞれ感じ方が違うからだ。
自分がされたら嫌なことを人にしてはいけないっていうのは
裏を返せば、自分がされて嫌なことじゃなければ
人にしてもいいってことになってしまうって。
人間関係って、そんな簡単なものじゃあないだろって
小学生のころから思ってて、すごく嫌だったことを覚えている。
それはたぶん、たまたま自分の感性が、ずいぶん人と違っていたから
そういう考えに至ってしまったのだろうけど。
子供のころも、今も、大勢のひとたちから、自分は気にならないことで
傷付けられてきたし
同じように、私も悪気なく何度も人を傷付けてしまったことがある。
まるで、教えを守れば守るほど、自分が間違っていると感じさせられるような。
そして、傷付けられたときも、傷付けたときも、なぜか
感性の違う自分が間違っていると、正しくないと、
そういう風に思わされてきたような。
だから、この教えは嫌いになってしまったんだけど
人はけっきょく、自分の感性の中でしか生きることができなくって
でも、それで、同じような立場の、同じような傷を負って生きてきた人たちを
助けたり、助けられたりっていうのが
特におとなになってから、何度もあったんだ。
そう、この教えって、大人が子供を、空気が作り上げた正しいに
従わせるためのものだと思っていたけれど、
本当はもっともっと優しい教えなのかもしれない。
この世界にはいろんな人生を送ってきた人がいて
いろんな傷を負った人がいて
いろんな救いや仲間を求めている人たちがいて
そういうすべての人の、すべての感性を、同じ気持ちの人どうしで
支え合って、助け合うための教えなんじゃあないのかなって
思ったんですよね。
誰だって、自分と同じような誰かの
してほしくないことと、してほしいことが
自然とわかっちゃうんだ。
それぞれそうやって、役割を持って生きてるんだよ。
だからどんなにみんなと違っても
君は誰かにとって必要な理解者であれば
それで君は正しいんだ。
っていう、こと…だったらいいなあって思う。
少なくとも、私はそういう風に人に伝えていこうと思う。
誰だって誰かのために存在しているっていう
優しい教えとして、これからも続いてほしいと思う。
そしてできれば、相手に悪気はなくっても
それは、嫌なことだからって、みんなが伝えられたらいいよね。
それを、そうなんだって、わかってあげられる優しい心が
みんなの中にあったらいいなって思うよ。